刑務所より愛を込めて No.12


文/高木一行
〜2016年8月11日〜


この手紙は、<高木一行を支える会>支援会員にあてて書かれたものです。

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 収監の少し前、美佳とともに『オデッセイ』という映画を観た。火星に独り取り残された主人公が、救助到着までの4年余の歳月をいかにして生きのびるか、という物語だが、現在私が置かれた状況と奇妙にリンクしていて面白い。

 刑務所というのは言うまでもなく、犯罪者が集められるところだ。右をを向いても犯罪者、左を向いても犯罪者。人殺しとか泥棒、覚せい剤で頭がおかしくなった者など、「娑婆」では決して出会いたくないような連中、つき合いたくない人間たちが狭いところにギュッとすし詰めになっている。
 途中経過の拘置所とは随分雰囲気が違う。ひとつところに何年も閉じ込められるうちに、心身に変調をきたすようになるのかもしれない。
 陰湿ないじめも当然ある。思わぬところで足を引っ張られたりもする。世間の常識は刑務所の非常識。ある職員いわく、「ここは正直者が損をするところ」、と。
 QOLという観点からすれば、間違いなく現在の日本で最低、最悪の環境といえよう。
 そうした劣悪な生活を、天(=自然=人間の力では変えようがない必然)から与えられたものとして、ただあるがままをあるがままに受け入れ、楽しく戯れることが・・・・龍宮道によってもし可能であるとしたら、龍宮道の真価が実証されたことになろう。
 むろん、試煉に押し潰されることだってあり得る。刑務所の常識に染まり過ぎて、出所後に社会的不適応を起こすのじゃないか、なんて美佳は妙な心配をしているらしいが、その時はそのとき、ということで。

 刑務所という独自の、異様な社会にあって、私が常に心がけているのは、「和光同塵」だ。叡智の光をやわらげ、わざを隠し、汚辱にまみれる。今、特にテーマとしているのは、空間と時間を極度に制約された状況下にて、空間と時間をレット・オフによって越えること。

 再審請求は結局延期となったが、完全に中止という可能性も充分あり得る。私が刑務所を出た後で行なっても、時すでに遅しの感が強いし、私自身の年齢を客観的に考えれば、エネルギーを無駄づかいするのは本当に馬鹿らしいと思えるからだ。
 万単位の署名など非現実的なことに思いを向けることなく、知性を反逆精神を備えた誠実な人々、1人1人との出会いを大切にして、龍宮の縁(えにし)をつないでゆく努力にこそ、精力を注いでほしい。そうした人と人との絆が、拡がり重なってゆけば、あるいは将来、再審請求を支える力となるかもしれない。が、それはあくまで結果であって、目的ではない。
 我々にできる、我々らしい社会活動とは何か? 司法制度の歪みを正そうとするのも悪くはないが、そうしたことは枝葉末節に過ぎず、やはり根本とすべきは、この社会全体、世界全体、文明全体にレット・オフを作用させ、浸透させてゆくことではあるまいか? レット・オフの効能、いや功徳をわかりやすく説き、示し、万人がレット・オフを求め、鑽仰するよう導くのだ。

 レット・オフを作用させる対象は、常に「我」だ。過去から現在、そして未来へと連続する(かのごとく感じられる)「我」、生きている「我」、いつか死にゆく「我」、誰かのことを考える「我」、悲しむ「我」、喜ぶ「我」・・・それらの「我(=私=自分)」を感じつつ、その感じること(感じようとする注意)を一切ブレさせず、途切れさせず(静中求動)、労宮へのヒーリング・タッチ感覚を凝集ぎみにわずかにねじり、レット・オフ。
 観照といい、瞑想という、その本質は自己の内面をただあるがままにみつめることにある、と古来より多くの先達らによって説明されてきた。それを実行しようとして誰も卓効を感じられないのは、最も重要な鍵が欠けているからだ。鏡にものを映すと左右が反対となるように、内面観照においても「反転」が鍵となる。
 自我(自分)という感覚に正反転を起こし、それ(「我」)が自ずからほどけ、解き放たれる状態を自然に惹起させてゆく。ただし、この際、ほどけへと注意を移さない。移すと、また新たな自我の核が生じてしまう。これが瞑想だ。
 少しく経験を積むうち、「我」とは要するに、身体各所のブロック、執着、滞りの別名に過ぎないという驚くべき事実が明らかになってくる。(もし、そう)であるならば・・・、それを後生大事に握りしめ、抱え込む必要がどこにあろう?

 私もまた、龍宮道の新境地を心身一如で拓くべく、日々努力、精進している。「我」なき努力。「我」なき精進を。

2016.08.11