高木一行先生のメッセージ

〜2016年4月26日〜

 2016年4月26日、ついに高木一行先生が収監されてしまいました。
 正義の番人であるはずの最高裁までが、なぜこのように理不尽な判決(実刑4年半)を是とするのか?
 私たちはこの正義などかけらもなかった裁判を終えて、司法界の異常さを痛感し、これに対して泣き寝入りすることは断じてできないという結論に達しました。
 高木先生のメッセージにもあるように、司法改革を目指す取り組みの一貫として、一度は断念しかけた再審請求も行なうこととなりました。
 皆様、これからはより大きな戦いになります。真に正義ある国家を目指すべく、ともに手を携えて進んで参りましょう!


 敬愛する皆様

 高木一行です。
 2年数ヶ月に及んだ私の裁判は、実刑4年半、執行猶予なしという異様に重い判決が、平成28年4月17日に最高裁判所で確定いたしました。弁護士はもとより、多くの人たちが首をかしげ、眉をひそめ、憤る、そんな、公正とはとても言いがたい裁判内容でしたが、これがわが国の司法の現実なのだと再認識した次第です。
 一体どれだけ多くの冤罪被害者が、今この瞬間にも無実の罪に泣き、愛する家族や大切な友人たちと共に苦しんでいるのでしょう? それを思うと背筋が寒くなります。

 結果はさておき、裁判に一区切りがついた今、これまで様々なご協力、ご声援を賜った方々に感謝の気持ちをお伝えするべく、本状をしたためました。
 裁判所へ提出する意見書・陳述書などの作成や署名集め、公判の傍聴、助言、そして浄財のご寄付など、少なからぬ方々から寄せられた多大なご助力に対し、裁判支援グループの友人らと共に、深謝いたします。
 本当にありがとうございました。

 実は、裁判支援者らの負担があまりにも大きくなり過ぎることをおもんぱかり、当初予定していた再審請求をいったん断念しかけたのです。万単位の署名を集め、有能でやる気のある弁護士たちの助力を得てなお、再審請求が認められるまでに10年、20年、あるいはそれ以上の歳月を要することはザラであり、しかもそうやって何とか再審までこぎつけても裁判所が最終的に正当な判断を下すとは限らないとなれば・・・。
 しかし、多くの方々から真心込めて説得され、叱咤激励され、この先も誇り高く進み続けることを決意いたしました。
「ここでやめてしまったのでは、今後の冤罪発生に間接的に手を貸すことになる」とまで言われては、立ち止まるわけにはまいりません。

 子供たちが夢中になるテレビや漫画のヒーロー、ヒロインは、例外なく正義の味方であり、小さな子供たちですら、正義の大切さ、素晴らしさを理解しています。
 ところが、私たちが暮らすこの国では、国民よりも国家の方が常に優先され、あたかも正義がなされてないかのごとくです。
 そのことについて指摘し、警鐘を発する有識者らの数は決して少なくありません。
 なぜ、そんなことが起こってしまうのか? 責任を問われるべきは一体誰なのか? 裁判を一通り経験して、その答えがおぼろげながらみえてきました。

 日本国憲法では、いかなる権力の干渉からも、個人的な利害関係からも、裁判官というものは完全に独立していなければならない、と定められています。「憲法と自らの良心のみに従いなさい」、と日本国憲法はすべての裁判官に対して厳粛に求めているのです。
 ところが現実には、日本のすべての裁判官は最高裁判所長官を頂点とするピラミッド構造の中に厳格に組み込まれており、その実態は官僚と何ら変わらないといいます。
 40年もの長きにわたり、冤罪事件の被害者たちの救済運動に挺身してきたある社会活動家は、「世間の人たちがよい判決だと感じるような判決を出した裁判官は、必ず左遷される。例外なく」、と私に話してくれました。
 裁判官の独立と自立が守られず、裁判官が正義をなそうとすればたちまち出世の道を断たれ、収入は減り、裁判官として最もやりがいのある仕事からも遠ざけられてしまう。
 そういう卑劣なやり方で裁判官を統制するわが国の制度の在り方、それ自体が、憲法違反ではないでしょうか?
 元裁判官の生田輝男氏は、「日本国民は犯罪者(憲法違反の裁判官)によって裁かれている」と断言し、同じく元裁判官の瀬木比呂志氏は著書『絶望の裁判所』で「裁判所の門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」と衝撃的な告発を行なっています。

 私と支援者らが裁判において一貫して訴え続けてきたのは、「どうかまっとうな裁判を行なってほしい」ということに尽きます。
「まっとうな」とは例えば、最初から被告を有罪と決めつけない、弁護側と検察側の証拠・証人を公平に調べる、科学的な客観性を重んじる(裁判官が自然科学者の役割を演じない)、検察に証拠の一部を隠すようなことをさせない、といったことですが、いずれも民主国家における公正な裁判の基本だと思います。
 ところが、その基本が完全に無視されているのがわが国の裁判の実情なのです。

 すべての社会的な問題に対する判断が最終的に委ねられるのは裁判所です。言葉を換えるなら、冤罪、原発、安全保障法案、その他様々な社会問題のすべてに共通するファクターが裁判所(裁判官)であるということです。
 その裁判所が国民の願いよりも国家の意向を重んじる不公正な態度を示し続ければ、人々は「どうせ何をやっても無駄なのだ」と無気力の糸にからみとられ、社会の問題に対しても無関心になってゆくでしょう。実際、それが現在の日本人全般が感じている閉塞状況の真の原因ではないでしょうか。

 上述の生田氏は情報開示を求めて最高裁を訴える運動にすでに着手しているそうですが、そのように国民が裁判所を訴えるという道もあるわけです。あるいは衆議院総選挙が行なわれる際、最高裁判事全員を「認めない」と多数の国民が意思表示することで、日本の司法制度の在り方そのものに疑問符を突きつけることもできるでしょう。
「裁判所を正す」というキーワードを通じ、多様な社会問題と個別に関わっている人々全員が一致団結できるのではないでしょうか。
 日本がより暮らしやすい民主的な国として生まれ変わるために・・・。そのような祈りをもって、主権者として共に立ち上がりましょう。

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 4月26日に広島検察庁へ出頭されたし、との呼び出し状が届きました。
 本状が皆さんのお手元に届く頃には、私はこの世界から「消え」、刑務所へと遷っていることでしょう。
 布川事件で濡れ衣を着せられ、冤罪を訴え続けて44年もの歳月をかけ、ついに無罪判決を勝ち取った桜井昌司さんは、私の無罪を信じて裁判をずっと支援し続けてくださいました。桜井さんから本日、激励のメッセージが届いたのですが、その中で「刑務所は、なかなか面白いところです。露骨に人の心が見えます。巧く立ち回る奴、狡猾な奴、根性の捻れた奴。それは受刑者だけではなくて職員も同じでした。社会と変わりません。その中に人間として信頼出来る人がいるのは社会と変わりません」と書かれている箇所を読んだ瞬間、ビリビリッと電撃に打たれたような衝撃が全身に走りました。

 私が刑務所へ行くことに対し、大勢の人たちが「これは修業だ」「山の中で修業するのと変わらない」「しっかり修業してくるように」などと言うわけです。
 まあ、そういうことなんだろうなとは思いつつも、それでは一体何の修業をするのか、これまで今一つピンと来なかったのですが、冤罪で29年1ヶ月もの長年月を刑務所内で過ごした桜井さんの言葉には、さすがに魂の深みより発する真実の重みがあります。

 刑務所という極限状況の中で、露骨に透けてみえるのは他人の心だけでなく、自分自身の心もまた同様でありましょう。
 自分は果たして、巧く立ち回る奴なのか、狡猾な奴なのか、根性の捩じれた奴なのか、それとも信頼できる人間なのか。
 自らの真の姿を知った時、私は何を感じ、何を思い、そして何を新たに決意するのだろうか。
 なるほど、これは類い稀なる得難き「修業」の機会であることよなと、にわかに刑務所が楽しみになってまいりました。

 ここまでに至る経緯を振り返ってみて、私が置かれたこの状況は、やはり「天命」であるに違いないと強く感じます。
 人事を尽くし、努力に努力を重ねた結果として、「刑務所で修業するべし」との天意が指し示されたのであれば、心静かにそれに従うのみです。そこで学び取るべきすべてを貪欲に吸収し、後日社会へ何らか善きものを還元するのだという意気に燃えて。
 そして、せっかく修業するのであれば、義務として嫌々ながら取り組むのではなく、積極的かつ意欲的に楽しんだ方がいいに決まってる、天が用意した修業環境を愛し敬った方がよいに決まってる・・・そんな風に考えるのは不謹慎というものでしょうか?
 これまで私たちを応援してくださった皆様ならば、きっと笑って許してくださるに違いない、そして「修業」を見守ってくださるに違いない、そのように信じています。

          平成26年4月22日 葭始生(あしはじめてしょうず)

高木一行 拝