刑務所より愛を込めて No.3


文/高木一行
〜 2016年5月17日 〜


愛する美佳

 同室のUさん(76歳)は、行きつけの飲み屋で知り合った同年配の男から、自宅アパートで飲み会をやるからと誘われ、出かけていった。参加者はUさんを含め6人。
 最初のうちこそ楽しく飲んでいたが、ささいな口論がきっかけとなって激しい乱闘が始まった。後でわかったことだが、Uさん以外の参加者全員が元ヤクザだったのだ。
 これはいかんと争いを止めに入ったUさんは、無我夢中でもみ合っているうちに、そばにあった包丁を無意識のうちに手に取ったが、それが1人の男の首すじに当たり、頚動脈を切ってしまった。
 ほとばしる鮮血。アッと思う間もなく、大きなクリスタル製の灰皿で後頭部を殴られたUさんはその場にうずくまった。

 救急車で病院に運ばれたUさんは、傷の手当てを受けた後、警察に逮捕され、直ちに拘留されて取り調べを受けることになった。
 そして裁判の結果は、懲役6年の実刑・・・。
「えっ!?」と誰もが驚くだろう。
 Uさんが包丁を持って一方的に襲いかかってきた、とその場にいた者たちが全員口裏を合わせて証言したのだ。
 刀の「当たり所」が悪かった。もし首から下であれば傷害事件として扱われたはずだが、首から上だと殺人未遂と見なされるのだそうだ。
 それ以前に酒の場で争いを起こしたことなど1度もなかったのに、とUさんは唇をかみしめる。慣れない環境にいきなり放り込まれてとまどいがちな私を気づかい、何くれとなく世話を焼いてくれるUさんは、好んで自ら争いを起こすような人間では、確かにない。
 が、そうした被告の「人間性」が無視されるのが日本の裁判だ。
 法廷において検察官はUさんに向かい、「事実は違うと言い張るのであれば、それを証明せよ」と告げたという。
 自らの無実を証明する義務は被告には「ない」という裁判の基本すら弁えてないことを、その検察官は自ら露呈してしまっている。
 Uさんのケースもまた、まごうことなき冤罪であろう。冤罪はここ(拘置所)では決して珍しいものではない、というよりも、ありふれている。

 こんな話も聴いた。
 ある人は、裁判中雑居房に拘置されていた時、同室者が購入したカリントウ(受刑者は購入不可)をもらった。たったそれだけのことで、「懲罰房」に1週間閉じこめられたという。
 そこでは朝から晩まで扉に向かってじっと座り続けることを強いられ、首を少し動かすことさえ許されないそうだ。
 理不尽、ではある。
 しかし、ここで「生き残る」上での、それがルールであるならば、そのルールを踏み外さぬよう細心の注意を常に払い続けることも、「修業」の一環といえよう。

 懲役の懲は「こらしめ」、役は「くるしみ」を意味する。懲らしめられねばならない理由は私にはないけれども、人類の苦を共にするという意味において、自由と人権を制約される苦しみを、敢えて受け容れる。
 来る日も来る日も同じことが延々繰り返されるだけの退屈極まりない生活の中で、ただ自らの裡なる中心をひたすら意識し続ける。
 それによって新たな境地が毎日のように拓かれ、新しいわざが次々と顕現するが、あまりにも膨大な内容ゆえ、現在私が置かれている環境においては、それらについて詳述することは諦めざるを得ない。
 まあ、修業中の者が、昨日はこれがわかりました、今日はこれを得ました、などと逐一外の世界に報告するというのも変な話だ。

 マルクス・アウレーリウスが言うように、死は現在のみに起こる。過去や未来を死ぬ者はいない。
 同様に、現在の瞬間のみが唯一リアルな<生>なのであり、その一瞬一瞬を精一杯生きる。それが私にできるすべてだ。

 2016.05.17       
愛を込めて
一行