刑務所より愛を込めて No.22


文/高木一行
〜2018年10月14日〜


 先日、面会の折りに話した新しい仕事というのは、計算工といって、山口刑務所内の全受刑者1人1人に関する作業量や休憩、面会、教育等の時間を詳細にチェックし、月給(最熟練工で時給60円弱)を計算するというものだ。
 毎日新しく入ってくる者や施設を出てゆく者がおり、あるいは何か問題を起こしてあちこちの工場を転々とする者たちの数も驚くほど多く、今誰がどこにいて何をしているかを常に把握することも仕事の1つだ。
 こうした仕事自体は、旧態依然としたシステムの恐るべき非効率さを手作業で補うのが面倒な点を除けば、刑務所内の人の移動が俯瞰できてなかなか面白く、何事も経験と張り切って取り組んだのだが、・・・・あまりに張り切り過ぎたためか、わずか3日にして、共に働く者たちとの間に軋轢(あつれき)を生じるに至った。
 自分の能力を示そうとか、他人より優位に立とうなどという気持ちは毛頭なく、ただ与えられた仕事に熱意をもって取り組んだだけなのだが、やっているうちにここはおかしい、あそこはなぜああなっているのか、といった不明箇所を次々と見つけ出してしまい、それらがいずれも先輩のミスによるものであると判明したら・・・微妙な空気になってくるのがわかるだろう?
「新入りのくせに生意気な」とばかりに、初心者には手に負えないような複雑な仕事を押し付けられもしたが、何とかこなして1つのミスもなく、「次の仕事をお願いします」、「他にやることはありませんか?」と無邪気にやっているうちに、・・・とうとうすることが何もなくなり、ネチネチと嫌味を言い揚げ足を取ろうとしていた者たちも何も言うことがなくなり、気付けば何とも言えない気まずいムードが「職場」に充満していた、という次第。爆発寸前、そんな感じだ。

 計算工というのは、どこの刑務所でもごく少数の優秀な「エリート」が任される特別な仕事とみなされているらしいが、囚人にエリートも何もあったものじゃないと私自身は思うけれども、周りの連中は本気でそう信じ込んでいるらしい。
 囚人が同類の囚人を見下す傲慢な選民意識が鼻についてどうにもやりきれない。かつて東京大学を中退した時の感覚がありありと甦ってきたのだが、どうやら私という人間はエリート意識や選民意識といったものが心底大嫌いに出来ているらしい。理屈ではなく、生理的な嫌悪感を覚える。

 さらに大きな問題があった。
 計算工が務める工場は「考査」も兼ねているのだが、これは新しく入所した者が刑務所内のルールを軍隊式で厳しく叩き込まれる2週間のプロセスだ。それはいわば、刑務所生活へと踏み出すためのイニシエーション(通過儀礼)のようなものであり、2週間の考査を終えて各工場へ配属されてみれば、あっけないほど規律は緩んでずっと過ごしやすくなることは、私も経験済みだ。
 若くて元気な者たちに対しては、大声で怒鳴りつけ、叱りつけ、体力の限界まで絞り上げるのもよかろう。だが・・・・認知症なのか、たった今教えられた簡単な動作すら行なえず、何度繰り返しても間違えてしまうような高齢者に対し、若者と全く同じ厳しい訓練を課すのは、虐待であり拷問としか呼びようがない。

 そういうことが、実際に目の前で行なわれているのだが、どうにも気味悪くて我慢がならないのは、周りの人間たちがニヤニヤ笑いながらそれを楽しそうに眺めていることだ。その脳内では幸福ホルモンと呼ばれるオキシトシンが盛んに分泌され、ドイツ語でいわゆるシャーデンフロイデ(人の不幸を楽しむ感覚)を味わっているのだろう。そうした風潮に私一人が同調しようとしないことも、工場内での孤立を深める要因となっていることは間違いない。

 深刻な人権侵害に目をつぶり、人間関係のきしみも意地で凌ぎ通せば・・・冷暖房の効いた快適な部屋で電卓やパソコンをいじりながら残りの刑期を「安易に」過ごすことができるだろう。
 しかし人間らしい心を捨ててまで安楽さを求めようとは思わない。ここは嫌だから、性に合わないから、他所(よそ)へ移してくれと頼んでも無駄だ。
 ならば・・・・どうすればよいのか? 自らの裡に深く問いかけた時、思いがけずも閃いたのは、「出役拒否」の一語だった。
 刑務所のやり方を変えさせることなど、今の私にはできない。が、「これ(人権侵害や虐待)は正しくない。間違っている。私はそれに与(くみ)しない」と、断固として意思表示することならば、できる。
 もちろん、刑務所から命じられた作業を拒否しようというのだから、重罪とみなされて隔離され、審査の上、懲罰(1週間程度、座りっぱなしで反省させられる)を受けることになる。それ以降の刑務所内での処遇も悪くなり、仮釈放にも悪影響が出るだろう。
 とはいえ、そもそも考査が明けて最初に配役された工場自体、戒罰工場といって、よそで問題を起こしたいわくつきの者ばかりが送られる、刑務所内の吹きだまりみたいな場所だったのだ。これは裁判中から現在に到るまで、ずっと一貫して冤罪を主張し続けてきたことに対する嫌がらせであり、懲らしめに違いないが、すでに最悪、最低を経験してきたのだから、それ以上悪くなることはあるまい。それに、最初の工場は私にとって最悪でも最低でもなかった。皆、親切だったし、むしろ喜んでそこに戻りたいくらいだ。

 この手紙が届く頃には、命令拒否の廉(かど)で独房に隔離されていることだろう。安楽な道を捨てて、わざわざ自らの不利益になる方向性を選ぶことは、傍(はた)から見れば馬鹿げた愚行と映るだろうが、信念に反する不誠実な行為によって安きにつくとしたら、それこそこれまで私を支え応援して下さった方々を裏切ることになる。
 囚人番号で管理される1人1人に、それぞれの想いがあり、気持ちがあり、かけがえのない人生がある。それは刑務所の中だろうが、外だろうが、まったく同じことだ。数字に還元された抽象ではなく、生きて血が通う、心ある、人間の<生>を敬う生き方を、躊躇なく私は選択する。
 誰の側(そば)に立ち、寄り添えばよいのか、改めて明確に確認できたことは大いなる収穫だった。毎日、ただ静かに座って瞑想する機会を持てるなんて、私に言わせれば懲罰どころか、ぜいたくな恩寵以外の何ものでもない。誰とも話せない、テレビもラジオもなしという環境も、まったく苦にならない。

 懲罰何するものぞ! 冤罪で刑務所(ここ)に居るのだから、少しは何か悪さでもやらかさないことには、アンバランスというものじゃないか(呵々大笑)。

 

 2018.10.14       

 愛を込めて
 一行