刑務所より愛を込めて No.21


文/高木一行
〜2018年2月11日〜


愛する美佳へ、

 先日の朝、居室の窓ガラスの「内側」にびっしり氷が張りついていた。窓や天井の結露が大量にしたたり落ちてきて布団を濡らすことを防ぐため、厳冬期でも窓を少し開けて寝るからだ。
「身を切るような寒さ」というが、寒さ、冷たさの感覚はある一定限度を越すと、鋭い痛みへと変わる。そういう、冷蔵庫の中で暮らすような生活にも何とか耐えられるのだから、人間というのは意外と丈夫に出来ているものよ、と妙な感心のしかたをしていたのだが、極限状態があまりに長く続けば、身体や精神に異常を来(きた)す者が続出するのも無理はない。稀にではあるが、朝起きてみたら隣で寝ていた者がこときれていた、といった珍事さえ起こるそうだ。
 こうした外的環境の厳しさと共に、刑務所(ここ)には人間性に対する絶対的な抑圧がすみずみまで浸透している。単調な日々に疲れ果て、不安に落ち込む隣人の肩をやさしく叩いてはげまし、背中をさすって慰めの言葉をかける、そんなちょっとした行為ですら、重大な悪事とみなされ、厳しい処罰を受ける、刑務所とはそういうところだ。

 人生の苦悩に対する、これが解答ですよと親切に教える書物がこの世にはあふれ返っているけれども、刑務所内でそれらをひもといてみると・・・・残念ながら、いずれも単なる活字の羅列と化してしまう。実人生の厳しい現実に対しては何の役にも立たぬ。
 閑静な僧院や市民社会の安寧の中で思索された生温い抽象概念は、人間の健康な生命を重苦しく締めつける刑務所という場所にあっては・・・・あまりにも無力だ。
 何と執拗に、我々は問題の答えを求めることだろう。だかしかし、人生とは、答えを探すべき問いかけではなく、生きられるべき現実なのだ。問題を避け、問題から離れようとするのではなく、問題と共に留まり、問題と一体化し、問題そのものを「ほどく」。すると、<救済>がもたらされる。面白いもので、問いがほどけて自ずから超克が起こる時、答えがそこにある。
 そのような、問いそれ事態に内包されたまことの解・答を顕(あら)わす具体的方法こそ、レット・オフ(内破法)だ。これは本当に効く。

 最近、これまで一度も話したことがない人から唐突に、「宗教家の方ですよね?」とか「教祖様ですか?」などと珍妙な質問を投げかけられ、とまどうことがあった。奇妙な話だ。内的修養の話など、刑務所へ来てから一度もしたことがないのに。
 そういえば以前、雑談の折りに「出所後は新興宗教でも作ろうかな」と冗談で言ったら、その場に居合わせた人たちが真顔で、「それはいい」「自分も入れてほしい」などと言い出したことがあった。組織宗教というものに、私はこれまでまったく関心がなく、そのことは刑務所生活を経験しても全然変わってないけれども。
「姿勢がいい」とは、いろんな人からしょっ中言われることだ。「いい体をしてる」と言われることも多い。なぜだかわからんが、「声がいい」とほめられたことも何度かあった。これらの小さなエピソードからも、刑務所での私の暮らしぶりの一端がうかがい知れよう。
 相も変わらず、「日に新たにして、また日に新たなり」を体現しつつある。今日(2月11日)は、背中(背骨)で音(音楽)を聴く方法がわかった。

 随分昔、公開のセミナー等にて一期一会でわざを教えただけの人が、今回の私の一件をどこかで知り、ヒーリング・ネットワークを通じてコンタクトしてくる、といったことが続いて起こっているといい、あるいは一度も会ったことがない人たちから、激励・応援のメッセージが届き、ある女性などは出所後の私をご馳走攻めにするべく、エキゾティックな料理を習い始めたという。
 外部に対する通信が著しく制限されている現在、それらの1人1人に対し感謝の気持ちを直接お伝えできないことを遺憾とする。私の<愛>は、常にあなた方と共にある。

 

 2017.02.11       

 愛を込めて
 一行