刑務所より愛を込めて No.18(最終回)


文/高木一行
〜2016年10月10日〜


 諸友へ語(つ)ぐ。

 自我それ自体を神経的に反転させてゆく新しい道が拓かれたことにより、生き方、というよりは在り方そのものを根本的にみつめ直さざるを得なくなった。遅かれ早かれ「そういうこと」になるのだろうという予感は当初からあったが、まさか収監後わずか半年も経たぬうちにそれが起こり始めるとは・・・・。
 外側からは悲劇以外の何物でもないとみえるであろう「これ」は、しかし、大いなるチャレンジへの参入を、歓喜の訪れの予感と共に告げる、神秘的な<ダイモーン>の(声なき)声なのだ。

 心理的なプロセスを止める、即ち内面的な死を死なない限り、これ以上先へは一歩も進めない地点へと、ふと気づいてみると、期せずして到達してしまっていた。
 肉体的な死がホンの表層的と感じられるほど深いレベルにおける死を、従容として迎え入れ、受け容れる。

 面会時に伝えた通り、残してきた私の私物はすべて処分してほしい。これまで人生を懸けて打ち込んできた諸々のことを・・・心身修養に関する指導や芸術活動を含め・・・・全部手放し、棄てて顧みないと決意した。
 再審請求も、もちろん不要。わからず屋の頑固な年寄り的マインドを相手にするのは、支援会の諸友も飽きて呆れて馬鹿らしくなったろう。

 無責任、と私を責める者は、それこそ無責任の謗(そし)りを免れまい。過去35年以上の長きに渡り、ひたすら人類の幸福を祈りつつ、努力と精進を重ねてきた。
 その結果が現在のこの状況というのは、宇宙的な皮肉、またはジョークともいえるが、人々は、社会は、真の調和と平安を、実は(心の奥底では)「望んでない」のかもしれないと、今になってそう感じる。というよりは、それを実現するため、「自分(我)」を消す用意が、人類にはまだできてない。

 イエス・キリストは、「富める者が神の国へ入るのは、ラクダが針の穴を通り抜けるよりも難しい」と語った。その意味が、今や明瞭に実感できる。
 過去へのこだわり。未来への希望と夢。信念。努力によって得たもの・・・すべて重荷だ。それらの「持ち物」をことごとく捨て去らない限り、「神の国」へと通じる狭い道はみつからない。
 これまでやってきたことの延長線を完全に断ち切る、そのように決めた途端、濃い霧がサアッと吹き払われるが如き明朗な爽快感が上体の奥深くでほどけ・弾け、細やかに微細振動する充実感が全心身を満たした。刑務所という不自由な環境にあっては、素晴らしい価値あるものを教え、分かち合いたいという望みですら、窮屈な重荷となる。

 ちょっと話題を変えようか。ガンジーいわく、「ブラフマチャリア(純潔)」は肉体の節制から始まる。しかし、そこで終わるものではない。その完成は、不純な想念さえ排除している。真のブラフマチャリアは、肉体の欲望の充足を夢みることすらしなくなる。そして彼がその境地になるまでには、なすべきことがたくさんあるのである。」(『ガンジー自伝』)
 ここで言う節制とは、塩断ち、豆断ち、ミルクの中止、果物だけの食事を指すが(ガンジーのこういうところが嫌いだ)、そんなマゾヒスティックで生命否定的な苦行などせずとも、ガンジーが描写するセックス超越の境地を、レット・オフにより実に用意に体現できる。収監以来今日に至るまで、性的妄想にとらわれ、性欲に苦しめられたことが1度もない。
 1度もないといえば、拘置所でも刑務所でも、食べ物をゆっくり味わったことが1度もない。楽しみのためではなく、ただ命をつなぐための目的で食事をするというのは何とも味気ないものだが、慣れてしまえばそれが普通になる。何かを食べたいとか、出所後には何を食べようとか、他の受刑者たちはしょっ中話し合っているが、レット・オフの功徳により、そういった欲望からも完全に自由でいられる。
 レット・オフという<恩寵>がなければ、刑務所修業はもっと苦しみに満ちたものとなっていたことだろう。

 諸友へ語ぐ。
 私については、死んだものとして、今後は認知を改めていただきたい。死んだと思えば、私への依存もきれいさっぱり消え失せる。先へ、未来へと、期待や願望を投影することもやむだろう。
 努力が自ずから止まり、崩壊し始める体験についてあれこれ記してきたが、それは努力するなという意味ではない。
 Vita brevis, ars longa. 人生は短く、心身修養のわざを修める時間は限られている。努力のレット・オフが自然に起こり始める臨界点まで、各自なりのやり方で努力することだ。

 超高齢社会にあっては、手放すこと(力抜き)、柔らかさ、受容性、虚、「無い」こと・・・即ち、オフに重きが置かれるようになる。どうしてもそうならざるを得ない。
 レット・オフとは、オフの方面からアプローチして、為(オン)と無為(オフ)を共に超え、無為の為という生のアンビバレンツを現実に体現する道だ。深刻な鬱状態もレット・オフを応用すれば自分自身で完全にほどくことができることも、鮮活な事実として諸友に示した。前回書き送った、葛藤をいやすヒーリング・メディテーションを実践すれば、死の直前まで知性を良好な状態に保ち、認知症を予防することができるだろう。冤罪という最悪の人権侵害により刑務所に閉じ込められていても、レット・オフは魂の救済への道を指し示す。
 この無形にして無上の至宝を、諸友1人1人へと確かに手渡し得たことを、小なる誇りとする。レット・オフを今後いかなる方面へと応用し、虚空の道を紡いでゆくか、それは各自の自由だ。

「改革を欲しているのは改革者である。社会ではない」というガンジーの言葉も銘記してほしい。改革者は社会から、反対、蔑視、そして生命にかかわる迫害のほかに、より良いものを期待すべきではない、とガンジーは言う。「改革者が命そのもののように大切にしていることも、社会が退歩だと言わないとは限らない」、と。
 これは事実、否、真実だと思う。諸友が対外的に働きかけてゆく際には、社会ではなく個人に、焦点を当てることだ。

2016.10.10       
刑務所より愛を込めて