刑務所より愛を込めて No.17


文/高木一行
〜2016年10月3日〜


※本手紙は、<高木一行を支える会>支援会員あてに書かれたものです。

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 何から何まで他者によって決められ、律される刑務所内の生活にあっても、自発的に選び、決められる選択肢がいくつかある。その1つが、職業訓練だ。これは刑務の単純作業につく代わりに、講義・実習を受講し、公費で資格を取る期間限定の特別なコースだ。内容はフォークリフトとか溶接、電気通信、ビル管理など、私に取ってはあまり魅力を感じられないものが多いのだが、介護福祉なるコースの募集があったので、ものは試しと申し込んでみた。
 入所して半年〜1年以上が経過してない者は原則として対象外、しかも定員20名のところ全国の刑務所から応募が集中するため、「絶望的」と周りの人達は言ったが、結果はなぜか合格。約2ヶ月半の訓練が、9月27日より始まった。三重、宮城、佐世保、松山、北海道など、いろんな刑務所から参加者が集まっている。

 65歳以上の「高齢者(!)」は、2025年をピークに激増してゆき、2060年には高齢化率が約40%に達すると予測されているようだ。と同時に年少人口の減少が進んでおり、世界のどの国も経験したことがない少子高齢社会へと、日本はもの凄い勢いで突入しつつある。高齢化が問題、懸念とされた時期はとうに過ぎ去って今や高齢社会がすでに実現し、間もなく超高齢社会がやってくる。2060年には、人口も1億を大きく割って8000万人台だ。
 こうした未曾有の状況にあって、いかなるヴィジョンの元でどのような対策が取られているのか、その大まかなところを学ぶべく介護福祉の職業訓練を取ったわけだが、開始早々、暗澹(あんたん)たる思いを禁じ得なかったね。悠長に経済的成長なんかを云々している時じゃない。かつてなかった種類の「国難」に、我々は直面しようとしている。
 日本の高齢化率は1980年代まで先進国の中でも下位だったが、わずか30年でトップへと昇り詰めた。大あわてで様々な対策が次々と打ち出され、いろんな法律が制定されているが、実態は「最低限」の感が否めない。訪問介護のサービスを受けている寝たきりの高齢者が週に1度風呂に入れてもらうといった話は以前からしばしば耳にしていたが、刑務所ですら週2回入浴できるのだ。改めて考えてみれば「不自由さ」という点において、服役者と要介護者には共通点が多々ある。

 思考には、人の内面的な問題を解決する能力はない。問題を解決しようとして、新たな問題を生み出してしまう。外側ばかりで中身がない。歴史上、無数の人々が思考を通じて生(生きること、人生)の根本問題にアプローチを試みてきたが、真の解決法を人類に示し得た者は皆無だ。

 介護福祉職業訓練の合格通知が来る直前、内的修業に新たな進展があった。クリシュナムルティの言葉に繰り返し耳傾け、要点を丁寧に書き出しながら内省を重ねるうち、ある瞬間、「観察されるものは、観察するものである」という言葉の真義が「腑に落ちた」のだ。
 これまで、思考やイメージ、感情など、内面で感じられるものを、新しい思考を介在させることなしにみつめ、みまもることを、瞑想の基本として長年実修してきた。その一歩退いた(つもりの)観照者たる「我」は、観察される対照(思考、イメージ、etc.)と別個に存在するものではなく、観察を通して仮想的に生み出される錯覚に過ぎないという真実が、心身一如で突如、実体化したのだ。
 観察されるものと観察するものが鏡像的に重なり、互いに打ち消し合って全心身レベルのレット・オフ状態へと自ずから移行する。それは、収監以来ずっと取り組んできた内的状態のレット・オフに通じ、相互に高め合うものであり、身体的には腰腹同量の正中心姿勢と対応する。
 ヒーリング・メディテーション。トータルなレット・オフにより煩悩を超越し、普遍的な大いなる慈悲の心を拓(ひら)く道。それが、拘置所&刑務所修業5ヶ月で、豁然(かつぜん)として開示された。
 これを応用すれば、クリシュナムルティの謎めいた声明、「あなたが世界であり、世界があなただ」も、リアルに、自然に、実感・実現できる。要(ポイント)は、観察される対象(世界)と観察者(私)とを、並列的にではなく鏡像的に対照させる。ヒーリング・アーツにおけるヒーリング・バランス、いわゆる鑑(かがみ)のわざだ。

 観察者(自我)とは、観察されるものによって神経反射的に生じる錯覚(仮想)であり、実体のない幻に過ぎない。その事実が、観察するもの(私)と観察されるものを鏡像的に向かい合わせ、互いに映し合うことにより、自ずから明らかとなる。「それ(その状態)」こそ、先人らが瞑想という言葉によって伝えようとしてきたものに違いない。
 いったん本質をつかめば、いつでもどこでも直ちに、観察するものと観察されるものとが溶け合って一体となる真の観照へと、瞬間的にシフトできるようになる。その実践を日々の生活の中で深めてゆくことにより、クリシュナムルティが言う「思考の表層を超えた深み」、「永遠にして神聖なるもの」が、徐々に垣間みえるようになり始める。そして、こうした内的実践は、外面的には何もしてないにも関わらず、周囲の人々へと冥々のうちに肯定的な影響・感化を及ぼしてゆくようだ。そのことを日々実感しつつある。
 職業訓練中は、新しい居室で新しい「同衆」と共同生活を送るのだが、今は従来と同じ広さのスペースを6人で分かち合っており、寝る時は敷蒲団をぴったりつけねばならないほど狭苦しい。当初、一触即発のピリピリした嫌な雰囲気が漂い、ちょっとしたことで激しい口論が始まったりしていたものが、ヒーリング・メディテーションを実践し、自分が置かれているこの状況が即、「私」であることを感じることを続けたところ、内的調和の感覚と呼応するかのように外側も何だかいい感じになってきて、毎日楽しく、有意義に過ごしている。

 刑務所内で誰もが苦労するのは、厳しい規則では全くなくて、「人間関係」だ。
「あいつは気に食わない」となったら、皆で結託して精神的に追い詰められ、部屋や工場から出てゆかざるを得ないよう仕向けられる。陥れられて規則を破ったように見せかけられ、懲罰を受ける(そして出てゆく)ことも珍しくない。それが刑務所というところだ。刑務所生活の問題点を書き始めると、例えば、ここ山口刑務所では病気になってもまともな医療が受けられないなど、それこそキリがないが、勝手に妄想をふくらませて勝手に体調を崩すバカ者が出そうなので、これ以上は書かない。あれこれ考えそうになったらそれらの思いこそが「自分(私)」であると心得て、ヒーリング・メディテーションを実践せよ。そして煩悩を超えるのだ。

 目立たずひっそり、を私は終始心がけてきたつもりだが、はたから見ると「ものすごく目立って」いて、「危なっかしくて仕方がない」のだそうだ。銃弾が激しく飛び交う戦場を、それと気付かずフラフラ彷徨(さまよ)い歩きながら、いかなる幸運によるものか、これまで無事であったという次第。
 しかし、そういうことを親切に教えてくれたり、刑務所内ではどういう風に考え、行動してゆけばよいかを丁寧に忠告してくれる人たちが何人もいる。突然話しかけてきた人から、「あなたは悟りを開いているだろう」と言われたこともあるし、「仙人みたいな人だな」と評されたこともある。このたびの職業訓練に当たっては、所属工場の全員(総勢25名)が、「おめでとう」、「しっかりがんばって」などと、祝福とともに送り出してくれた。刑務所仲間たちまでが、私の修業を様々な形で支えてくれている。

 この修業は、僧院や禅寺におけるそれよりも、遥かに強烈で効果的だ。むろん失敗すれば、貴重な時間を空費するだけでなく、人間性のいくばくかを喪失する可能性が高いのだから、誰に対しても勧められない両刃の剣ではある。1つだけ確かなことは、刑務所という極限状況で「使える」ものならば、外の世界でも確実に使えるということだ。
 今は、そうした実用テストに取り組んでいる。ここで得たものを、出所後に何らかの形で人々と分かち合う機会が果たして与えられるものか、それはまさに神のみぞ知る、だ。私は何も期待しない。望まない。すると・・・至福がある。

2016.10.03