刑務所より愛を込めて No.16


文/高木一行
〜2016年9月16日〜


※本手紙は、<高木一行を支える会>支援会員あてに書かれたものです。

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 再審請求に対し消極的な態度を取る道を選んだ途端、心身のエネルギーレベルがガクッとダウンした者たちがいるそうだが、外のことはすべて外にいる人々にまかせ、ゆだねているのだから、各自が何でも好きなことをやってゆけばよいのだ。再審請求という形式にこだわる必要もない。
 今回の冤罪事件で最も悪質と感じられるのは、検察官の大失態をかばうかのように裁判官らが証拠なきデッチ上げに加担した(あるいは、加担したかの如く観える)点だ。裁判官のミスにせよ、意図的なものであったにせよ、それを改めて裁判所に認めさせるのは至難のわざではあるまいか。自らの過ちを潔く認め、直ちに改めることができるほど、わが国の裁判所は成熟してない。
 さらに、再審請求の手続きだけで莫大な費用がかかることも問題だ。それだけの金があるなら、もっと建設的な目的のために、「楽しく」使ってほしい。私のことは二の次、三の次でいいから。

 山本奈生先生が差入れてくださった『ガンジー自伝』を読み始めたところだが、宗教者としてはまったく共感するものがまったくないガンジーの、天才的政治家としての側面を新たに知ることができて興味深い。弁護士でもあった彼が、刑務所生活を幾度か体験していることにも親近感を覚える。
 ガンジーいわく、「わたしに対して発せられた命令を無視したのは、合法的な政府に対する尊敬が欠けているためではなく、より高い存在の法律、すなわち良心の声に服従するためであった。」(『ガンジー自伝』) 「犯罪を犯して刑務所へ入れられるのは容易である。しかし無実の罪で刑務所入りするのはむずかしい。」(同前)
 ・・・・私が「親近感を抱く」理由がわかるだろう?
 人権を抑圧する非人道的支配に対し、非服従の受動的抵抗を展開してゆく運動を、ガンジーは「サッティヤーグラハ」と呼んだ。サンスクリット語でサッティヤは真実、愛。アグラハは堅持と、そこから生まれる力を意味する。つまりサッティヤーグラハとは真実の力、または愛の力という意味だ。ガンジーは「それは敵に対してではなく、自分の自我に苦悩を与えることによって、真実を証明することである」と言っているが、私たちは我々独自のアプローチを通じ、真実の力、愛の力で非暴力の戦いを霊的に戦ってゆこうではないか。
 例えば、断食ひとつとってみても、個人的な狭い意識、理由のために行なうことから大きく一歩を踏み出し、社会的なヒーリングを念じながら公開の<行>、<儀礼>として取り組むなら、それは何らかの影響を人々の意識に与えずにはおくまい。Facebookやツイッター、ブログ等を通じて祈りと洞察を社会へと送り届けてゆくことも助けになる。

 意識、思考、他者との関係性は、私たちの内面にこそある。我々が知覚するすべては、肉体の外ではなく、内側で起こっている。この<真実>に基づき、私たちは心理的な革命を非暴力的に戦ってゆく。
 外へ外へと向きがちとなる意識を内向させ、生の余計な動きや葛藤から解放されるための鍵を、今回は何手か分かち合っておこう。これらは、体系的に実践し続けねばならないテクニックのようなものではなく、あるがままの真実へと注意を向け換えるためのきっかけ、ヒントのようなものに過ぎない。外的な形式としての方法、手法に執着しないように。

◎誰かのことを考える時、過去の経験や記憶から、その人はいかなる人で、どんな風に考え、行動するのかといった先入観やイメージについて、もっぱら考えている。それを意識(強調)しながら、労宮にヒーリング・タッチした指腹を強調(意識)→レット・オフ。内的意識の強調と、ヒーリング・タッチの強調とは、相呼応する。「心理」にいかにしてレット・オフをかけるかは、各自なりに工夫してゆくこと。決まったやり方は、ない。
 他者に対するイメージがレット・オフされると、全身に巻きついていた見えない鎖が一気にほどかれたような解放感が味わえる。これを応用して、自分が自分に抱いているイメージ(自己イメージ)をレット・オフすることもできる。
 少しく実践するうちに、自他に対するイメージ(記憶、思い込み)が自他を縛り、互いにマイナスの影響を与え合っていることが実感され始めるだろう。これはイメージの内容の良し悪しとは関係ない。イメージが人を縛るのだ。

◎龍の萼(うてな)の応用
 土踏まずで龍の萼にヒーリング・タッチ(立位、あるいは仰臥で膝を立てる)。そして土踏まずを意識しながら、内面を観察する。
 何かの思考がやってきた時、それに対し言い訳したり、自分を納得させようとしたり、あれこれ心理的バランスを取ろうとする、そのたびごとに土踏まずのバランスが変わることがわかるだろう。
 これが意味するのは、1つの考えに対してあれこれ考えると、重心ならざる中心に対してまた別の(非重心なる)中心ができ、それらが互いに拮抗し合うということだ。それが葛藤の本質だ。現に今、この瞬間にある内的状態に対し、「こうあるべき」とか「これはいけない(これは良い)」などと新たな思考を持ち込んで分裂を起こすことなく、労宮にヒーリング・タッチしながらそのタッチ感覚をごくごくわずかに強調(=内的状態も同時に強調される)→レット・オフ。
 すると、レット・オフ感覚が内的観照にスーッと染み込んでくる。観照、即レット・オフ、レット・オフ即、観照となる。内的状態と、それを反転した鏡像的波紋とがぴったり重なり、互いに、即時的に、打ち消し合って「中和(中庸、中道)」が起こる。
 慣れてきたら、上記の修法を行ないつつ、龍の萼で土踏まずにどんなことが起こっているのか観察すると面白い。
 バランサーたる土踏まずの機能を、内的葛藤の調律へと応用する可能性についても、注意を向けてほしい。土踏まずへの禊マッサージ、熱鍼法施術なども推奨できる。

◎胸式呼吸において胸(大胸筋側)よりはむしろ、脇を意識する。脇で息するように、脇を大きく開き、閉じる。脇に注意すれば、肥田式・胸式呼吸法における腕の動きの意味がわかる。簡易強健術も同様。簡易強健術が「全身の伸縮運動」であり「圧力運動」であることが実感できるようになる。

◎肥田春充いわく、「肩(肩、肩胛骨、脇、腕、手)」の力を腰腹の間に落とせ」と。肩から胸・背中(の間)を通って腰腹間(骨盤腔)へと力/意識を落としてゆく、その際、体幹を真っ直ぐ筒のような形と仮想していたのでは、みぞおちのあたりで流れが停滞してしまう。横(体側)から観ると、腰腹のところは勾玉(まがたま)上にカーブしている(『プロメテウス解剖学』参照)。「腰を反らせて尻を突き出す」(春充)ことに対応する自然の構造だ。この自然の形に沿って、肩の力を腰腹間へと収めるのである。
 その状態を、いかなる体勢であれ常に想起してチェックすることから始め、やがて、肩→腰腹ではなく、腰腹→肩と、主従を転換する作業へと移ってゆく。

2016.09.16